先月25日に愛猫を看取りました。19歳9ヶ月、洋猫の純血種としてはかなりの長生きでしょう。
私にとっては、ここまで自分に影響を与える存在と別れるのは初めてのことです。両祖父母は既に他界していますが、ずいぶん昔で親戚づきあいもあまりなかったので、いなくなって悲しいという実感があまりなかったのです。
20歳から39歳までを共にした、悲しい時も嬉しい時もいつもいてくれて、いつも全然変わらなくて(当たり前だけど)、いつも可愛い存在は、心の支えでした。
老猫になってからは特に生活の中心で、なるべく1人にしないように、一緒にいるようにして、体調や様子に目を配っていました。
そんな中心にいたものが突然ごっそりなくなった時、人ってこんなに欠乏感にさいなまれるのですね。
うちの仔は来た時からずっとできる限り丁寧に育ててきたので自分の行動に後悔はありません。
でも、やっぱり、辛いですね。
正確には辛いというより、心にぽっかり穴が空いた感じ。こんな陳腐な言い回し、古い歌にしか出てこないよーくらい思っていましたが、いや、これ以上の表現がないのです。あるはずのものがない。心も体も何もかもが対応できてないのです。
本人も私の気持ちに応えるようにとっても頑張ってくれました。おそらく本来の寿命より生きてくれた。だから、悲しいけど悲しくはない。辛いのは喪失の悲しみで頭では理解できています。
あえて穴を空けたままにしておきたい
この辛さは心の穴のせい。ぽっかり空いた穴を何かで塞げば、楽になるんでしょうか?
よく、仲良し熟年夫婦の奥さんが亡くなって、旦那さんがすぐ再婚するケースがあります。以前は全く理解できなかったけど、今は気持ちがよくわかる。寂しいんですよね、いつも生活を共にしていた存在がなくなって、普通の生活までもが辛くなっちゃう。
私の場合、空いた穴を埋める行動は新しい猫ちゃんを飼うこととかだと思うけど、そういうことはしたくない。空いた穴は、そのままにしておきたい。いなくなった寂しさをしっかり味わうことも、絶対に忘れないことも、私にとっては必要です。
とはいえ日が経つにつれ記憶が薄れるのが人間だから、今まで20年近く撮り溜めた写真と動画を集めてデータにし、デジタルフォトフレームをリビングに置き一日中再生しています。声も聴けるし、姿が見られてほっとします。
やる気が出るタイミングを自然に待つ
愛猫が亡くなって以来、前ほどいろんなことについてやる気が出なくなりました。Tbooks下北沢でもいろんな企画をどんどん打っていましたが、今はブログのインタビュー記事を文字起こしするのすら、やろう!と思えません。せっかくインタビューさせてもらってるのに、、、。
でもしょうがないです。今はこういうタイミングで、私には動かない、動けない期間が必要なんです、多分。たとえこの時期に何かのチャンスを失ったとしても、それはその方がよいものなんだろうなぁと思う。
だからできることをやってみて、無理だったら休んで、ちょっとずつ状態を良くしていきたいです。
別れの質って、いろいろある
余談ですが、すごく感じたのは、この別れは純度が高いなぁということ。
私が今までほんとーに辛かった別れは、うまくいかない恋愛の終わりでした。数回あります。あれは、生きるのが辛くて辛くて、何をしていても辛くて、数年は生ける屍みたいになっていました。それに比べると(比べるもんじゃないけど)今回のお別れはなんて純粋なんだ、綺麗なんだ、と思います。
たぶん、愛猫との別れは感情がシンプルだからでしょうね。「大切なものを失った」というのは共通でも、「とにかく寂しい」「喪失感」などシンプルに心情を言い表わせるのに対して、恋愛の場合は「理不尽」「怒り」「自信喪失」「執着心」などいろんな要素が組み合わさっている。だから心の中がぐちゃぐちゃで感情が安定しない。不安定極まりなく、辛いんですね。
恋愛の心の動きは本当に複雑で、感情の動きが激しい人はとても疲弊しますよね。でも自分がなんで傷ついているのかを知るだけでもだいぶ楽になります。自分で自分の心に向き合うのって大事。
私も寂しさを無理に無くそうとせず、一日一日粛々と過ごしていこうと思います。Tbooksは今後もゆっくりゆっくり、進みます。